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【ミスターハンドボール】宮崎大輔選手の経歴から学ぶ「あきらめない姿勢」

【ミスターハンドボール】宮崎大輔選手の経歴から学ぶ「あきらめない姿勢」

※記事内にPRを含む場合があります。

今回は、ハンドボーラーはもちろん、ハンドボールをしていない一般の人にも名が知れ渡っている宮崎大輔選手の経歴から、宮崎選手のアイデンティティである「あきらめない姿勢」を学びたい思います。

 

宮崎大輔選手の経歴

某アスリート系のテレビ番組で、その圧倒的な身体能力を披露し、一躍有名人になった宮崎大輔選手ですが、ハンドボーラーとしての経歴も華々しいものです。

 

高校生時代には圧倒的な点取り屋

大分県に生まれ、小学校3年生からハンドボールを始めた宮崎大輔選手の才能は、高校時代に大きく開花します。

ハンドボールの名門校、大分電波高校に進学し2年生にしてインターハイ得点王に輝きました。

また、高校3年時には、インターハイと全国高等学校ハンドボール選抜大会、2つの全国大会で得点王になり、その名が全国に知れ渡ることとなりました。

 

大学進学と海外リーグ挑戦

大分電波高校を卒業後、宮崎選手はハンドボールの超強豪大学である、日本体育大学に進学します。

全国から強豪選手が集まる日本体育大学でも、2年時にはレギュラーに定着し、全日本学生ハンドボール選手権大会(インカレ)で優秀選手に選ばれる活躍で、チームの優勝に大きく貢献しました。

2001年からは、大学を約2年間休学し、日本ハンドボール協会からの派遣という形で、スペインへハンドボール留学します。

しかし、この時の海外挑戦では2部リーグでのプレーにとどまります。

2年間の留学を終えた宮崎選手は、日本体育大学を中退し、日本ハンドボールリーグの大崎電気へと加入する事になります。

 

大崎電気と日本代表での活躍

大崎電気に加入した宮崎選手は、デビューイヤーにも関わらず、最優秀殊勲賞ベストセブン最優秀選手賞新人王に輝き、名実ともにチームの主力として活躍します。

また、日本代表の中心選手としても活躍しますが、2004年アテネオリンピック、2008年北京オリンピックとも本大会への出場は叶いませんでした。

また2006年には、テレビ番組「スポーツマンNo.1決定戦」に初出場して優勝し、その名がハンドボーラーのみならず、一般の人々にも知れ渡ることになります。

 

2度目の海外挑戦

2009年、当時27歳の宮崎選手は、大崎電気との契約満了を機に、スペインリーグ1部のCBアルコベンダスへ、トライアウト(入団テスト)を受けて挑戦します。

海外挑戦の理由は、「オリンピックに出るには、個を鍛えなければいけない」と語っていました。

今回のスペイン挑戦では、目標にしていたシーズン100得点もマークし、翌年に大崎電気へ再加入します。

この時期が、宮崎選手のバックプレーヤーとしての全盛期と言っても過言ではありません。

 

日本代表から落選、日本体育大学に再入学

2010-2011シーズンから復帰した日本ハンドボールリーグでは、復帰イヤーにフィールド得点王を獲得し、日本代表でも引き続き中心選手として活躍していました。

しかし、リーグ戦での得点は徐々に低迷し、2015年のブラジル・リオデジャネイロオリンピックの予選敗退以降、日本代表からは落選してしまいます。

当時の宮崎選手は34歳、腰の手術など、度重なるケガにも悩まされ年齢的に限界かとも思われていました。

しかし、2017年の日韓定期戦で、36歳にして日本代表に復帰し、レフトウィングにコンバートされます。

そして、2018-2019シーズンをもって出場機会の減っていた大崎電気を退団し、日本体育大学へ再入学する事を決断します。

 

大学へ復帰した理由

2019年の4月に日本体育大学へ再入学した宮崎選手の年齢は37歳。

6月の誕生日を迎え、現在は38歳になります。

年齢だけ見ればアラフォー世代です。

しかし、宮崎選手が大学復帰を決断した理由は「何としてもオリンピックに出たい」という思いに他ならないと語っています。

現在の日本代表では、これまで宮崎選手が主戦場としてきたセンターバックやレフトバックに、有望な若手の部井久アダム勇樹選手をはじめ、ゲームメーカーとして欠かせない東江雄斗選手らが名を連ねています。

世界選手権2019でも宮崎選手は日本代表に選出されましたが、バックプレーヤーとしてではなく、ウィングプレーヤーとしての活躍をダグル・シグルドソン監督に求められていたように感じます。

ウィングプレーヤーに求められることは、サイドシュートはもとより、まずは走る事です。

これは、中学生であろうと、トップリーグでも、日本代表でも求められる事です。

またシグルドソン監督は、「所属するリーグは関係ない。(日本代表の選考は)個人のパフォーマンス次第」と語っています。

日本体育大学は、日本有数の「走る」チームで、これは今も昔も変わらず、伝統といって良いほどのプレースタイルです。

宮崎選手は、「走る」ことで自身の活路を見出そうとしているのではないでしょうか。

 

宮崎選手の諦めない姿勢

宮崎選手のバックプレーヤーとしての全盛期は、間違いなく2度目のスペイン挑戦時の時、20代半ばから後半だったと思います。

その後、ケガに見舞われ、大きな手術も経験しています。

一般的な選手であれば、手術、特に腰のケガとなれば引退も考えるものですが、その点で宮崎選手はあきらめず、現役にこだわり続けました。

あきらめず、オリンピック出場を目指して大学へ再入学、手段を問わず目標に向かってプレーし続けています。

オリンピック出場への執念が、現在38歳の宮崎選手を突き動かしているように私は感じます。

オリンピック出場が叶えば本望ですが、そうならなくても、宮崎選手のハンドボールに対するあきらめない姿勢は、日本ハンドボール界の「レジェンド」と呼ばれる所以だと私は感じています。

ABOUT ME
HBおじさん
1979年生れ。中学1年からハンドボールを始め、中学3年時に中体連およびJOC県選抜で全国大会出場。 ケガのため20歳で現役を引退するが、34歳の時に大学時代の先輩に誘われ、某中学校ハンドボール部の外部コーチとして再びハンドボールとの関りを持つ。